世田谷文学館「原田治展」で行われた、アートディレクター新谷雅弘さん(聞き手 信濃八太郎さん)のトークイベントに行ってきました。
1枚目の写真には私の幼心が詰まっています。初恋の人であるペーター佐藤さん、初めて可愛いと思えたイラストと作者が結びついた記憶の原田治さんが笑っています(1枚目写真:左から、原田治さん、新谷雅弘さん、安西水丸さん、ペーター佐藤さん)。その原田さんの盟友だったアートディレクター新谷雅弘さんが語るエピソードはそれはそれは貴重で面白く、ここには書かないけれど沢山メモりました。真面目なお話はもちろん凄いけど、意外にも笑ってしまったのが、原田治さんは占いが好きで「今日はどこ行くの?南には行かない方がいいよ」っていう電話が度々かかってきて「うるせーよ知らねーよ」ってなったってお話。とても好きなエピソードでした。
今日のお話と展覧会を観て、私は原田治さんのブログ(美意識がものすごかった。美しくない行動にとても怒っていた。)を楽しみに読んでいて、ある日の投稿を普通に読んで、その5日後に亡くなってしまった事にすっかりしょげてしまった自分を思い出したり、幼い頃からの記憶が全てこの方達と結び付いてる事実に気が付き、この人達が生み出したもので私のある部分は出来ていて、その存在が一人づつこの世から居なくなってしまっても自分はその断片を持ったまま生きていくんだという事を想いながら、もう一度展示を観ました。
OSAMU GOODSを持っていると、自分も可愛い存在な気がしてたその頃の幼い自分が愛しいなと感じました。原田治さんが「かわいい」をどう考えていたかを伺って、そんな幼心に納得したのです。
新谷雅弘さん、信濃八太郎さんありがとうございました。
写真は、全て原田治展で撮影(一部を除いて写真撮影可能でしたので、掲載しました)
ここまでは、インスタグラムとfacebookに書いたものと同じ文章です。ここからは、私のペーター佐藤さんの思い出を少し書きます。
私がとても小さい頃、ミスタードーナツの紙袋にペーター佐藤さんのイラストが描かれていました。その絵は、外国の男性の顔をパステルで描いたものでした。小さな私は、世の中にこんなに素敵な男の人がいるんだという衝撃でずっとずっと眺めていました。そして、小さいながらもこの絵を描いた人はどんな人だろうと興味が湧きました。インターネットのない時代、どうやって調べたのか思い出せませんが、従姉妹の大きなお姉さんが買っているananとか、そういう雑誌で見つけた可能性が高いです。
そして、そのペーター佐藤さんというイラストレーターご本人そのものの素敵さに、再び私は衝撃を受けるのです。この世界には、イラストレーターという絵を描く職業があって、男性もそういう仕事をしていて、更にイラストを描いているこの男性はものすごくタイプだ!いやあ小さかったけど、私のタイプだ!そう思ったのははっきり覚えています。その事実を知って、もうそれ以外の世界なんて考えられないくらい夢中になりました。
将来は、チェックのシャツを着て、窓辺から光がさす自宅アトリエで絵を描いているイラストレーターと結婚するのだ。そう決心しました。今思うと、そんな小さい頃から、憧れは絵の世界に生きる人たちだったのですね。アイドルとかにはほとんど興味がありませんでした。
原田治さんのブログに、ペーター佐藤さんを偲ぶ記事が載っていたことがあります。ペーター佐藤さんは、膨大な数の注文のイラストを徹夜で描いていたため、原田さんはいつもペーターさんの身体の心配をしていたそうです。
ペーター佐藤さんの絵は、緻密な技術を要するエアブラシや、後年のパステル画でも緻密な技法だったため、ずっと立ちっぱなしのまま描き続けるという徹夜作業が続いたそうです。「一気に描かないと、途中で気が抜けちゃう」とおっしゃっていたとか。そして、49歳で亡くなってしまいました。私も絵を描くときは、ずっと描き続け、途中で止めると流れが変わってしまうので、何時間でも何日でも描き続けます。ペーターさんもそうだったんだな、どんな気持ちで絵を描いていたのかな?と、嬉しかったり、悲しかったり、そんなことを昨日から考えています。
原田治展で、思いがけず私が幼かった頃の大切な方達の笑顔の写真を見てしまい、すっかりその頃の自分を思い出しました。どこまでも健気に憧れの絵やイラストレーターを想い続けていた私に、「あなたは、大きくなってもそのままずっと絵の世界を愛するんだよ。小さい頃に、この方達に出会えてよかったね」と声をかけたい気持ちです。
素晴らしい先輩方に感謝しかありません。天国でまたお会いましょう。そこで私の絵を見てください。あなた達に出会って人生が決まった私の絵を。